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第3話 血のついたハンカチ

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-08-03 00:45:33

 翌朝、血のついたハンカチは景都の手元から消えていた。

 撮影前のダイニングには、冬の光が長いテーブルへ差している。景都はいつもの席でブラックコーヒーを飲んでいた。私の前には、牛乳を多めに入れたカフェラテが置かれている。

 頼んだことはない。共同生活が始まってから、朝になると必ずそこにあった。

「昨日のハンカチ」

「洗いに出した」

「そこまでする?」

「使える」

 聞きたいのは布のことではない。

「瀬名さんのこと、何か分かった?」

「まだ確かなことは言えない」

「私のことなのに、私だけ待つの?」

 景都はようやくタブレットを伏せ、包帯の端から覗く指を見た。

「まだ腫れてる」

「今、指の話してない」

 彼の口が閉じる。

 傷なら見れば分かる。私が何を知りたいかには目を向けない。

「今日は会社へ行く。サンプルの確認が残ってるから」

「来るなと言われただろ。休め」

「景都が決めることじゃない」

「行けば余計に騒ぎになる」

 椅子を引く音が、静かな部屋へ響いた。

「同じにしないで」

 私はバッグを持った。

 テーブルの上でスマートフォンが震える。

 昨夜のグループチャットに、また瀬名の名前があった。

『真帆さん、朝ごはん食べられました?』

 その下に笑顔のスタンプ。

 景都にも見える位置だった。

「優しいね」

 自分でも嫌な声が出た。

 景都は画面を見ただけで、何も言わなかった。

 会社へ着くと、受付の電話が鳴り続けていた。

 机には、引き手の幅が三ミリ違うポーチの試作品が二つ並んでいる。片方を開き、閉じ、もう一度開いた。気づくと同じ動作を三回していた。

 金具は正常に動く。問題があるのは商品ではない。

 机の端でスマートフォンが震えた。番組公式アカウントが短い動画を上げている。

『撮影中にアクシデント――「無理しないでくださいね」真帆を気遣う莉子』

 映っていたのは、眉尻を下げて「無理しないでくださいね」と言う瀬名だけだった。耳元で流産を口にした声は入っていない。コメント欄の上には、『莉子ちゃん優しすぎる』が浮かんでいた。

 画面を伏せ、三ミリの修正線へ戻った。

 灯が椅子を蹴るような勢いで来た。

「送らなくていい。帰る」

「金具の確認だけ――」

「真帆さん。今、金具の話してません」

 怒った時だけ使う丁寧な口調だった。

「会社に迷惑かけてる」

「だから広報がいるの。仕事まで取らないで」

 灯の手が、机に引いた三ミリの修正線を覆った。私はその手を外し、試作品へ付箋を貼る。

「引き手は三ミリ広げる。工場へ送って。それを確認したら帰る」

 部長が頷き、後輩がデータを開いた。

 自分で決めた修正が画面へ反映されるのを見届ける。今日、私が最後まで触れられた仕事は、その三ミリだけだった。

 自宅へ戻る頃には胃が空だった。

 冷蔵庫から出した水の蓋を、包帯の手で押さえられない。ボトルが床を転がった。

 屈んだ瞬間、胃がひっくり返る。洗面台へしがみつき、苦い水だけを吐いた。

 チャイムが鳴った。

 無視すると、スマートフォンが震える。

『開けて』

 ドアスコープの向こうに、黒いコートと紙袋が見えた。

「帰って」

「気分悪いんだろ」

「……誰に聞いたの」

「宮坂さん。帰り方がおかしかったって。住所も彼女に聞いた」

「食べ物を置いたら帰る。薄い粥」

 結婚していた頃、景都が唯一作れた料理だった。

 チェーンを掛けたまま扉を開ける。景都は足を入れず、紙袋だけを差し出した。床のボトルを拾おうとして、私の顔を見ると手を止める。

「入っていいか」

 昔なら、聞く前に靴を脱いでいた。

 私はチェーンを外した。

「……粥を温めるだけ」

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